鉄クズを取りに来た同じ東アジア人の仕事を見て汚れ仕事で大変だなと思っていたら私の作業を見て憐んでくれたのか缶コーヒーをくれて自分の客観性の無さを感じた。
善光寺の木仏、製作者が完成させた後も変化し続ける、完成は無くも思える。
ピピロッティ・リスト展を水戸芸術館で観る、ビデオアートは立ってみるのと寝転んで観るのでは作品の見え方がこんなに違ってくるのだという事や肉体(胎内)、自然、テクノロジー、ジェンダーなど考えさせられ興味深かった。
誰かを尊敬する事で学びを得る、色々な人を尊敬出来る人はそれだけ多くを学べる、尊敬出来る距離を保てば。
『遠くから見ると美しい富士山も登ってみると岩だらけの殺風景な所』というように人も畏敬の念を抱けたり美しく見えるちょうど良い距離があるのだと思う、近くへ寄るとお互いの自我が本質を覆ってしまっていて見えなかったり。
益子陶芸美術館の黒田泰三展へ。李朝を現代的解釈したような白い作品になる以前のものもあって興味深かった。自分の内面を深く探っていく禁欲的な姿勢は禅やミニマリズムと繋がって欧米からも理解しやすそうに思った。一人で篭って自分の内面を深く探っていくという作家像に何か違和感を感じたのは時代のせいなのかもしれない。
午後から少し遠出して山間部の町へ。このご時世では見ているようで見ていない、分かっているようで何も知らない目の前の現実やそういうものだと思い込んでいる事柄など足元をよく見て、捉え直すことが理にかなっているように思えた。
工芸とクラフトの違いは、工芸はどちらかと言うと技術に重点を置いて、クラフトは心に重点を置いている様に思っていて、AI、機械化での製造が進む中、技術的な部分は人を超えていき、クラフトの様な心のある場所の方の価値は増している様に思われる。
久しぶりに東京へ、現代美術館で開催のマーク・マンダースと水犀で佐古馨さんの展示を観に、行ってよかった。
日本で料理が発達しているのは潜水艦の中で料理が発達するような事に似ている気がする。
行列のできる人気作家というのは単に個人の作家は大量に出来ないのに情報を広く拡散できるツールが出来たのでそうなってるような、もしカップヌードルが少ししか生産しなかったらすごい行列ができると思う。
スペインではお店に入るのにブザーを押して怪しいものではないと認められないと入れない所もあって古本屋の様なところに入ろうとしたところインターホンで「ここにはあなたが買えそうな本は無い」と入店拒否された事もあり、知り合いの骨董屋も大勢で店に入って来ると「出ていってくれ」とか言ったり、あまり日本では無いなと思った。
ギリシャ時代など昔は死も身近で、1秒、1秒生きている実感は今とは比べ物にならないほどだった様に思う、時代が経つごとに薄まっていってる様。
以前のようにテレビ垂れ流して思考停止でも普通に生きていける贅沢も無くなってしまったし。
植物など人が植え替えたり、枯らしたり出来るけれど人類が滅びても生き残りそうだし、弱そうに見えてすごく強いものという印象、人間の考えてる次元を超えた存在で興味深い。
中国もアメリカも大国は傲慢。
本当に転売を無くすのならクリストのように誰も所有できない作品を作るしか無いのではと思う。
人生死ぬまで何があるかわからないので死ぬまでもがき続けなければならなそう。
40兆の細胞をコントロールするには相当繊細な技術が必要だと思う、いままで出来た人間はいるのだろうか?
何かに時間を忘れて没頭するのは日常の時間と別の時間を生きることで、植物や動物の時間に近づくことの様に感じる。
鶏も薄暗い所で卵を産む様に薄暗い方が何かを生み出し易いような。
今日は木工旋盤でヒビの入っていた材を加工していたら遠心力で砕けた破片が高速で手と胸に当たり手が腫れたり胸が痛かったりさんざんな目にあった、幸い大したことがなかったけれど運が悪ければしばらく仕事ができなくなったり死活問題につながる、体が資本で何があるかわからないので用心しながら生きていかないとと再認識。