短期的に見ると人間は植物を除草剤で枯らしたり、切ったり植えたり自分の意のままにできる弱いものと考えるけれど長期的に見ると人間が滅んでも植物は繁栄するだろうし結局勝者は植物なのかもしれない。
毎週月曜日にゴミ出しに行く事とブラックホールの衝突が地続きの現実だと感じられたら、それらを繋げて表現できたら凄い。
幼年期は特に意識しなくとも全身で外部の微妙な音、匂い、触感など感じ取れるけれど、歳をとるにしたが意識的に感じようとしないと感じられなくなっていく、時間の流れが歳と共に早く感じられるのは今の瞬間の厚みを感じられなくなって目まぐるしく表層を滑る生活になってしまうというのもあるのかも知れない。
もし意識的に今を感じ取ろうとすると必然的に余計な物を省いた生活になっていく様に思う。
手作業で商品を作るというのは労働の経済活動という側面からは矛盾している様に思える。
人を否定しなければ自分の正しさって証明できないものなのかな?
何かを否定、批判し自分が正しいとして自分の領域に導き、そこでマウントを取ると言う手口をよく見る。
例えば白い砂浜、椰子の木、ビーチパラソル、青い海と空などから想起される情景などほとんどの人が理解できる感覚があり、その感覚をどれだけうまく表現出来るかと言うのは分かりやすく順位をつけやすいように感じるがあまり創造的ではないように思う。
分かりやすいイメージの組み合わせから今まで感じた事のない匂いのような感覚を発生させる事などの方がまだ面白い。
https://youtube.com/watch?v=FfrplDSBCzM&feature=share
目の前の風景には無限の段階があり毎日の自分の状態で合うピントが違う。
数年前にいただいた胡桃の苗木を植えたところ大きくなり葉が芽吹き出すころから色々な虫やカエルなどの拠り所になる、何もないところから有機的立体物が発生してバラバラな生き物が集う様が興味深い。
鉄クズを取りに来た同じ東アジア人の仕事を見て汚れ仕事で大変だなと思っていたら私の作業を見て憐んでくれたのか缶コーヒーをくれて自分の客観性の無さを感じた。
善光寺の木仏、製作者が完成させた後も変化し続ける、完成は無くも思える。
ピピロッティ・リスト展を水戸芸術館で観る、ビデオアートは立ってみるのと寝転んで観るのでは作品の見え方がこんなに違ってくるのだという事や肉体(胎内)、自然、テクノロジー、ジェンダーなど考えさせられ興味深かった。
誰かを尊敬する事で学びを得る、色々な人を尊敬出来る人はそれだけ多くを学べる、尊敬出来る距離を保てば。
『遠くから見ると美しい富士山も登ってみると岩だらけの殺風景な所』というように人も畏敬の念を抱けたり美しく見えるちょうど良い距離があるのだと思う、近くへ寄るとお互いの自我が本質を覆ってしまっていて見えなかったり。
益子陶芸美術館の黒田泰三展へ。李朝を現代的解釈したような白い作品になる以前のものもあって興味深かった。自分の内面を深く探っていく禁欲的な姿勢は禅やミニマリズムと繋がって欧米からも理解しやすそうに思った。一人で篭って自分の内面を深く探っていくという作家像に何か違和感を感じたのは時代のせいなのかもしれない。
午後から少し遠出して山間部の町へ。このご時世では見ているようで見ていない、分かっているようで何も知らない目の前の現実やそういうものだと思い込んでいる事柄など足元をよく見て、捉え直すことが理にかなっているように思えた。